2019年6月9日日曜日

ぬぬぬ

何かが頬をつついている。
浅香は意識を取り戻すと、まずそのことに気がついた。
起きろ、起きろ、とせっつくように、何かは執拗に浅香を突く。

やめてくれ。眠いんだ。もう少し寝かせてくれ。

浅香は狸寝入りを決め込むことにした。

「おーい、起きてくださーい」

そんな声が聞こえた。若い女の声だ。浅香が身じろぎしたのを見て、もうすぐ起きそうだと思ったらしい。
だが今の浅香の中では、性欲(あるいは知的好奇心)よりも睡眠欲の方が勝っている。彼は反抗することなくその刺激を寛容に迎え入れた。

まだ寝足りない。まだ起きる時間じゃない。

浅香はそのままもう一度意識を手放すつもりだった。しかし、女はしつこく浅香の頬を突き続けた。断続的な刺激によって、否応なしに浅香の意識はより覚醒に近づき、感覚が明瞭になり始める。

やがて浅香は自分が椅子に座り、机に顔を伏せるように寝ていることに気がついた。枕代わりにしている腕と机の天板の間から光が染みるように差し込んでいる。

教室で眠ってしまったのだろうか。まず浅香はそう考えたが、すぐにその仮説を取り下げた。浅香の席は先週の席替え以来最前列であり、そんな最前線で眠りこけるような太い肝も厚い面の皮も彼は持ち合わせてはいない。

どういう状況なのだろう、これは。

次第に頬への刺激の頻度が高まっているのが分かった。女は痺れを切らしているようだ。
自分は、起きなくてはいけないのだろうか。何か差し迫った予定でもあっただろうか。浅香は記憶を辿り始める。
朝起きて見慣れた天井を見上げ、顔を洗い歯を磨いて、5枚切りの食パンにバターを付けて焼いて食べて、いつもの道を通って学校に行って、授業をぼんやりと聞き流して、学食でカレーを食べて、何やかんやあって、見慣れた顔と一緒に帰路について、そして────

突然、浅香の脇腹が強い刺激に晒され、思考は中断された。

「く、きひ」

喉の奥から絞り出すような、妙な音が浅香の口から漏れる。
女は頬をつつくだけでは飽き足らず、脇腹を責めてきたのだ。
浅香は思わず身を捩り、顔を上げた。そして安眠を妨害した不届き者に、報いを受けさせてやると憤った。しかしそんな怒りは、目の前に広がった光景を見た瞬間に霧散した。

白で統一された空間だった。壁も、天井も、床も、全てが白い。目の前には白い机があり、浅香が伏せていたところには涎の跡がてらてらと光っていた。向かい側には椅子が一脚。その他に家具は見当たらない。照明器具の類いも見当たらない。にも関わらず、空間は温かな光に満たされていた。
もちろん、浅香には見覚えのない景色だ。現実離れした光景だった。夢でも見ているのか、と浅香は口をぽかんと開けた。

「ようやく起きましたね」

その声は背後すぐ近くから聞こえた。浅香はとっさに首を動かしてその声の出処を確かめようとした。 同時に背後の気配は一歩後退し、浅香の脇腹を鷲掴みにしていた感触が、名残惜しそうに離れていく。
浅香は体ごと振り返り、浅香を起こした張本人の姿を視界に捉えた。

第一印象は、天使だった。
そこにいたのは、部屋と同じく白を基調にした装いをした女だ。陶器のように色白い肌が部屋に広がる光に照らされて、透き通るように明るく見える。流れるような黄金色の髪は収穫を待つ稲穂のようで、その澄んだ紺碧の双眸は海光の如き輝きを湛えていた。
神がかった美しさだ。浅香は椅子から立ち上がるか否かという姿勢のまま惚けていた。女の美貌に見蕩れていた。

「初めまして、浅香伊織さん」

女は浅香の視線を正面から受け止め、にこりと笑って言った。

「は、初めまして……」

浅香は一応は挨拶を返したが、その胸中は困惑でいっぱいだった。ここは何処で、この女は誰で、自分は何故ここにいるのか。分からないことが多過ぎる。
女は「お掛けください」と浅香に声を掛けた。それで浅香は立ち上がりかけていた椅子に再び腰を落ちつける。

「突然の事ですので当然ですが、困惑していらっしゃるようですね」

女はおもむろに机の向こう側に移動すると、そこにあった椅子に腰掛けた。その所作があまりに様になっていたので、浅香の背筋が無意識に伸びる。

「それでは、私の方から現在の状況についてご説明させていただきます」

女はそう言って、どこからか取り出した名刺を浅香の方へと差し出した。浅香は恐縮しつつも名刺を受け取った。

「私はエルレシアと申します。以後お見知りおきを」

浅香は名刺に視線を落とした。Elreshiaという文字の上に丁寧にエルレシアとルビが振られている。なんとも親切なことだ。しかし、何より浅香の目を引き付けたのは彼女の肩書きだった。

公益財団法人、異世界転生局、人事部人事課。

なんじゃそりゃ。異世界転生って……あの異世界転生?
浅香は異世界転生モノというジャンルの小説をいくつか読んだことがある。お気に入りのものは何度となく読み返した(このジャンルは玉石混交なところがある)。
しかし、それがどうしたというのか。異世界転生局ってなんだ。てか公益財団法人ってなに。
浅香が当惑していると、エルレシアは苦笑して口を開いた。

「それを見ると、皆様そうやって面食らったような表情をなさいます」
「えー、エルレシアさん?」
「そんなに畏まらず、親しみを込めて『えるるん』と呼んでくださっても結構ですよ?」
「異世界転生局とは一体……?」

エルレシアの冗談を受け流しつつ、浅香は恐る恐る訊く。エルレシアはそれを受けて、堂々と言い放った。

「世界間を渡り人間を転生・転移させることを業務とする法人です」

しばしの沈黙。

「……そ、そうですか」

浅香はなんとか相槌を打った。正味、全く意味は分かっていない。浅香の心中を知ってか知らずか、それを聞いてエルレシアは笑みを浮かべた。

「他に質問はありますか?」

疑問だらけだよ。浅香はそう言いたいのを堪えつつ、口を開く。

「ではこの、人事部人事課とは……どういうことでしょうか?  私を異世界転生局様の方で雇って頂けるのでしょうか……?」
「ああ、いえ、それは違います」

エルレシアははっきりと否定すると、続けた。

「人事部のことを英語で何と申すかご存じですか?」
「はぁ、human resources department……でしょうか」
「その通りです、human resourcesなのです」

エルレシアは浅香が問いに答えられたことに対してか満足げに頷いた。

「私たち職員の雇用などの処理は、神事部でなされます。divine resourcesです」
「でぃばいん……」

さらっととんでもないことを言っている。

「えーと……エルレシア、様」
「ですから『えるるん』でも構いませんよ?」
「エルレシア様は、その、神様なのでしょうか」
「ええ、そうですが」

当然だと言わんばかりに、エルレシアは胸を張って答えた。
となると、浅香が第一印象で彼女を天使と形容したのは過小評価であったと言わざるを得ない。
エルレシアは女神、らしい。たしかに彼女にはその風格がある。彼女の堂々とした物言いや、その現実離れした容姿。浅香はそうした要素からエルレシアの神性を感じ取っていた。
しかし、浅香にはエルレシアなんて名前の神には覚えがなかった。もしかすると民間信仰のようなローカルな神様なのだろうか。

「あ、私の名前に聞き覚えが無いのは当然ですよ。浅香さんの世界とは別の世界の神ですから」

浅香の思考を読んだようにエルレシアが言った。

「こう見えて私、唯一神なんですよ。まあうちの局には他にもいっぱい神様がいるんですけどね」

エルレシアはそう言って陽気に笑ったが、浅香の口から出たのは乾いた笑いのみだった。今のが笑うべきところだったのかが分からない。
目の前にいるのが神なのだと思うと、下手なことはできなかった。神は理不尽なものだと相場は決まっている。怒りを買わないよう、慎重に立ち回る必要がある。

ふと浅香は気がついた。自分はこの馬鹿げた状況を、受け入れている。神が自分の目の前にいて、しかもそいつが笑えないジョークを言っては自分で笑っている。普通の人間ならば、一笑に付すようなシチュエーションだ。もしそんなことを経験したのだと人に言おうものなら、クスリでもやっているんじゃないかと疑われかねない。
目の前にいるのは、ただの痛い女なのではないか。あるいはこれはテレビか何かの企画で、今にもどこかから「ドッキリ!」と派手に書かれた看板が飛び出してくるのではないか。そんな疑念を浅香が持つのは当然と思えたが、彼がそんなことを考えることはついぞ無かった。

エルレシアはあまりにも神らしい。神を信じていなかった浅香にさえも、そこにいるのが神なのだと思い知らせるほどの神々しさがある。エルレシアの神性には疑う余地が無い。浅香はほとんどそれを確信していた。

「では、そろそろ本題に入りましょうか」

話題が途切れたところを見計らって、エルレシアは姿勢を正し浅香を見据えた。エルレシアの眼に少し真剣味が増したのを浅香は感じた。彼は緊張しながらも、エルレシアの方を見返す。

正味、浅香にはこの先の展開が予想できていた。

「まことにお気の毒ですが、浅香さんは一度お亡くなりになりました」

予想通りの宣告だ。今更ショックはない。
浅香は静かに頷いた。それを見てエルレシアは少し驚いたような表情を浮かべる。

「自分の死を受け入れていらっしゃるのですね」
「はい。……今はっきりと思い出しました」

浅香は完全に思い出していた。彼は下校中、トラックに轢かれたのだ。彼が最期に見た光景は、自分の腹から捻り忘れたソーセージのようなものが赤黒くこぼれる様だった。しばらくはシャウエッセンでも食べたくない。

「ご愁傷さまです」

エルレシアはそう言うと、浅香に向かって手を合わせた。浅香は思わず笑ってしまった。まさか自分がそんなことを言われるなんてことを想定していなかったし、何より目の前の金髪碧眼の神が仏教徒染みた仕草をするのがひどく似つかわしくないものに思えた。

「恐れ入ります」

浅香が破顔しつつそういったのを見て、エルレシアはにっこりと笑った。

「ようやく笑って頂けましたね」
「……お気を遣わせてしまったようで、申し訳ございません」
「その調子で『えるるん』と呼んで頂いても構わないのですが」
「それは御遠慮させて頂きます」
「それは残念です」

エルレシアは心底残念そうな顔をして言った。

「ともかく、あなたは前世での一生を終えました」

エルレシアは「前世」という言葉を使った。少し気が早いのではないかと浅香は思ったが、これからエルレシアが話すであろう内容のことを考えると、そうでも無いのかもしれないと思い直す。

「ですが、あなたの人生はここで終わりではありません」

エルレシアはアルカイックな笑みを浮かべ浅香を見つめた。

「浅香さんには、新天地、新世界で、第二の人生を送って頂きます」
「新世界?  ジャンジャン横丁ですか?」

浅香は自分でも驚いた。自分が神を目の前にしてそんな軽口が叩けるとは。
エルレシアも驚いたように目を丸くすると、すぐに表情を崩し笑った。浅香も笑った。

『あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だからあなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生を送りなさい』

そんな言葉を浅香は思い出した。両親は今頃泣いているだろうか。反抗期に入って、よく突っかかってきた妹はどうしているだろう。クラスメイトは葬式に来るだろうか。案外、授業が休める、と喜んで来るかもしれない。そのうち何人が泣くだろう。小中学校の卒業式にも泣かなかったあの幼なじみは、ここぞとばかりに泣いてくれるだろうか。トラックから助けてやった、あの女生徒はどうだろう。自分のせいだと泣くだろうか。そうだとしたら、少し申し訳ない。
もはや浅香にそれを確認する術はなかった。だが彼はそれでもいいと思った。
少なくとも、自分はここで笑っている。

「いい人生でした」

心からそう思えた。

「悔いはありません。喜んで転生させて頂きます」

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