2019年6月12日水曜日

ぬぬぬ3

何かが頬を濡らしている。
浅香は意識を取り戻すと、まずそのことに気がついた。
続いて口の中の異物感に気がつく。浅香は無意識的にそれを咀嚼した。瞬間、口の中に広がったその野性味溢れる芳醇な味と匂いに、浅香の意識は一気に覚醒した。
浅香は起き上がり、口の中のものを吐き出した。土だ。気持ち悪い。一刻も早く口の中をすすぎたい感覚に駆られた。
手のひらを見ると、湿った黒い土がべったりと付いている。爪の間に入った土をじいっと見ながら浅香は回らない頭の稼働を試みた。

ここは何処だ?

浅香は周りの景色を見渡した。まず目に入るのは木だ。と言うよりも、木しかない。見上げると、青々と茂る緑葉の天蓋が見えた。その隙間から漏れ出す光がやや霞がかった空気にぼんやりと浮かんでいる。そんな光景を仰いでいると、自分が井戸の底にでもいるような気分になった。
辺りには土と木の皮が湿った匂いが立ち込めている。どこか懐かしいその匂いは、浅香に小学生の頃ダンゴムシを捕まえてはしゃいでいた時のことを想起させた。

浅香は立ち上がろうと、地面に手を付こうとした。その時、自分が左手に何かを握りしめていることに浅香は気がついた。何か布のようなものだ。ハンカチであろうか。浅香はその物体に目を向けた。

そこにあったのは、真っ白いパンティーであった。

浅香は混乱した。


次第に落ち着いてくると、浅香は今までの状況を思い出し始めた。自分は神に「ギャルのパンティー」を願い、そして異世界転移をしたのだ。何らかのイレギュラーがあったようだが、その内容については浅香はよく分からない。エルレシアが転移させるはずだったのが、結果的に何か別の力によって移動させられてしまったらしい、ということは何となく伺い知れた。

浅香はパンティー片手に立ち上がり、ズボンの尻についた土を払う。湿り気のせいでなかなか土は取れない。浅香は顔を顰めた。土の湿り気が尻だけでなく背中全体に染み込んでいて、あまりいい気分ではない。
土を払うのを諦めると、浅香はもう一度辺りを確認した。言うまでもなく森だ。森と言っても、もりのくまさんのような陽気な感じのものでなく、ヘンゼルとグレーテルに出てくるような、魔女でも住んでそうな陰気な森。陰気だけにマイナスイオン、なんて軽口も言ってられない。

さて、これからどうしよう。もちろん浅香にはサバイバルの経験など無い。ナイフの一本でもあれば少しは状況も良くなったかもしれないが、浅香の手元には何も無い。パンティー以外には。

浅香はパンティーに視線を落とし考えた。このパンティーは何かに使えたりしないものだろうか。ただのパンティーに見えるが、これは神の寄越したパンティーなのだ。何かしらの神性を伴っていてもおかしくない。
そのパンティーは未使用品のように見えた。と言っても浅香には使用済みのパンティーをまじまじと見つめるような経験など無かったので完璧な鑑定とは言えないが。少なくとも汚れは見られないので、浅香はこれを新品だと判断した。

これは、装備品なのだろうか。腰防具か、それとも頭防具なのか。だがそれを試すと男としての尊厳を失ってしまいそうであったので、それ以外の使用方法を模索することにした。
浅香はパンティーを片手でぶんぶんと振り回してみる。もしかすると武器なのかもしれない。近くの木に向かってぶつけてみたが、木の皮表面の汚れがこそげ落ちただけであった。
続いて、浅香はパンティーを投げてみた。当然、パンティーは空気の抵抗を受け急速に減速し、ひらひらと地面に落ちた。

どうしろと言うのだ。もうこんなもの、雑巾にするくらいしか利用しようがない。浅香はその第一歩として、パンティーを拾い上げると手に付いた土をパンティーになすり付けた。浅香の手は綺麗になった。
浅香はそこで違和感を覚えた。パンティーが依然純白を保っているのである。浅香は続いて前腕部の汚れを拭き取った。それでもなお、パンティーは白いのである。
浅香はパンティーを土に埋めてみた。暫くして掘り出すと、それでもパンティーは汚れていない。

なんじゃこりゃ。浅香はパンティーをまじまじと眺めた。絶対に汚れない下着、ということだろうか。テフロン加工でもされているというのか。これが女物でなくて男物であれば、浅香が有効に利用したというのに。履けない以上、これはただの汚れない雑巾だ。それはそれで便利そうだが。
浅香はパンティーをズボンのポケットに突っ込んだ。少なくとも今この森で有効に使えるアイテムではないということは分かったので、その性質の調査については後回しにすることにした。

ともかく、道具も無しにこの森に居座り続けるのは難しいだろう。危険な動物が棲んでいる可能性も考えると、出来るだけ早く抜け出さねばなるまい。まだ日は出ている時間のようだが、太陽がどこにあるのかは分からない。
さて、森を出るにしてもどちらに進めばよいのだろう。耳をすませば水音でも聞こえるだろうかと思ったが、聞こえるのは遠くで鳥が鳴く声だけだ。
道に迷った時、むやみやたらに歩き回るのは避けるべきだというが、それは助けが来る見込みがある時の話だ。ここは異世界なのだから、このまま待っていてもレスキュー隊が救助に来てくれるわけもない。動き回ってみなくては始まらないだろう。浅香はそう考えて、歩き始めた。

分け入っても分け入っても青い山。浅香は一向に変化が見えない周りの景色にうんざりしつつも、茂みを掻き分けつつ森を歩いた。
やがて浅香は進行方向に動くものを見つけた。もしかしたら人かもしれない。こんな深い森に人がいるとは思えなかったが、そんな希望を捨てきれない。浅香はゆっくりとその影に向かって近づいた。距離が近づくに応じて、その姿がだんだんと鮮明になり始める。
それは浅香よりも一回りどころか三回りは大きい、熊のような生物だった。浅香はそれを呆然と見ていた。熊なんて生で見たのは初めてだったが、その感動で動けなかった訳ではない。
その熊の頭部は、フクロウだったのだ。

化け物だ。あまりにも異様なその風体に、浅香は思わず後ずさる。あれは魔物というやつだろう。
魔物というものが存在することはエルレシアから聞いてはいたが、それがまさかあんな化け物だとは。浅香が想像していたのは、とぼけた顔をしたスライムだった。いや、こんな感じの化け物が出てきてもいいが、それはせめて終盤の話だろう。最初に出会う敵ではない。

浅香は化け物を観察した。熊らしく辺りをうろついているが、同時にフクロウらしく頭を回転させて辺りを探っている。あれは、フクロウの顔をした熊なのだろうか。それとも、ガタイのいいフクロウなのだろうか。一目には判断がつかない。
こいつは飛べるのだろうか。航空力学的には、というよりも見るからに物理的に飛ぶには適していない風体をしている。肩の辺りの筋肉は盛り上がるほどに発達しているし、前脚は丸太ほどに太い。そこで浅香は化け物に前脚があることに気が付いた。手には猛禽類染みた鋭い爪があったが、翼は有していないということだろう。
考えごとをしていたのがいけなかったのか、じりじりと退っていた浅香の足元で、小枝が音を立てた。
化け物の首がフクロウみたく真後ろに回転し、浅香と目が合った。浅香の顔面から一瞬にして血の気が引く。化け物は浅香の姿を認めると、すり足のような歩き方で向かってきた。

熊に遭遇した時は、背中を見せて逃げてはいけない。そうしたらたちまち背後から追いかけられることになる。それを知っていたので、浅香は化け物から目を離すことなく後退する。しかし、化け物は浅香の視線を気にすることなく、ずんずんと距離を詰めてきた。
浅香がさらに後退すると、背中に何かがぶつかった。木だ。
瞬間、浅香の動きが止まるその時。
化け物が爆発的な勢いで飛び込んできた。
その右腕が、ブレる。
浅香は反射的に、右斜め前に倒れこむように身をかわした。

メキ。

背後からおおよそ人生で聞いたことの無いような音が聞こえる。体勢を整えつつ、浅香は音の出所に目を向ける。
化け物の右腕が、木に刺さっていた。化け物は、浅香めがけて右腕を思いっきり突いたらしい。そして、その腕はバリスタの矢のごとき威力をもって、浅香の後ろの木に命中したのだ。
浅香の背筋に冷たい汗が流れる。あれをまともに喰らえば、浅香の肉体は文字通り粉々になるだろう。
浅香の左こめかみの辺りから何か温かいものが垂れた。確かめるまでもなく血だ。遅れて鋭い痛みがやってくる。どうやら奴の鉤爪が掠ったらしい。

この状況に至っても、浅香は冷静だった。その時浅香には死の恐怖というものがそこまで無かったからだ。すでに死を経験し、死後の世界というものが存在することさえ浅香は知ってしまっている。最悪、死んでもいいのだ。せいぜいエルレシアに失望され「死んでしまうとはなさけない」とか言われるくらいだ。
だがそれでもできることなら死にたくない。第2の人生はまだ始まったばかりだ。浅香は化け物の方を見据えながら、次に取るべき行動を考える。

浅香はポケットからパンティーを取り出し、若干の躊躇とともに血を拭った。頭部の傷は派手に出血するものだ。このままでは目に血が入り、その隙が命取りになるかもしれないと考えた。
浅香は逡巡した。頭に被れば止血ができるのではないか。見た目は悪いが、この際そんなことも言ってられないのではないか。
そんな浅香の苦悩は、すぐに無用になった。傷にパンティーを押し当てているうちに、浅香は気が付いた。傷の痛みが無い。恐る恐る患部に当てていたパンティーを離し確かめてみると、そこにあった傷は消えてしまっていた。

なんなんだこのパンティーは。散々血を吸ったはずにも関わらず、未だ純白を保っているパンティーを浅香は呆然と眺めていた。やがて、メリメリと何かをちぎるような音に意識を引き戻される。
化け物が木から腕を引き抜いたのだ。化け物の首がゆっくりと浅香の方を向く。
浅香の身体に緊張が走った。浅香には化け物に対して一切の決め手が無い。倒すことが出来ない以上、浅香が生存するには逃走しか選択肢は無いのだ。今更ながら、先程の隙は逃げる絶好のチャンスだった。自身の判断ミスに、浅香は小さく舌打ちを打つ。
もう一度同じ手にかかってくれるかはわからないが、もう一度何とか隙を作り出すしかない。浅香は身構えた。

しばらくして、浅香は怪訝に思った。いくら経っても化け物に仕掛けてくる様子が見えないのだ。油断を誘おうとしているのかと浅香は気を引き締めたが、やはり様子がおかしい。
化け物は浅香の左手を注視していた。
そこにあるのは、パンティーである。
奴はこれを恐れているのか。浅香はパンティーを前に突き出し、化け物に一歩歩み寄った。化け物は同時に一歩後ずさる。

もしかすると、これが弱点なのか。パンティーが弱点ってどういうことだよ。いや、このパンティーの特性が、神性が、神聖属性が弱点なのか。
浅香はパンティーを右手に持ち替えつつ、さらに歩みを進める。化け物はすり足で後退し続けている。
やがて、化け物が背後に木を背負った。先程までと逆の構図だ。浅香はさらにじりじりと距離を詰める。浅香が一歩踏み出した瞬間、化け物は再び浅香に飛び掛かってきた。

右の突きが来る。
浅香はそう読んでいた。化け物は接敵してから、常に左足が前になるようすり足で歩行していた。先ほど見た突きも右腕だった。それに、熊は右利きだと相場は決まっている(実際には熊じゃなさそうだが)。
奴は右利きだ。ならば、追い詰められれば必ずそちらで攻撃してくる。
実際その通りだった。
化け物は右腕を突き出してくる。
しかし、助走が無い分先の攻撃よりも勢いは乗っていない。
浅香はボクシングのダッキングの要領で上半身を大きく沈ませ、同時に左前に踏み込む。
元々背丈が違いすぎるのだ。さらに浅香が体勢を低く取れば、ストレートなど当たる道理が無い。
浅香の身体は容易に化け物の右脇を潜り抜けた。
そのまま化け物の右後ろを取ると、浅香は右手のパンティーを振りかぶった。
そして、振り下ろす。
パンティーは化け物の右肩甲骨のあたりに命中した。
パンティーは何の抵抗もなく化け物の体を通り抜けた。
効果は絶大だった。
パンティーが通った軌跡は、肉の赤色として化け物の右肩から左脇腹にかけて残った。焼灼止血法でも実施したように、血は流れなかった。切ったわけではない。どちらかというと、パンティーが触れた部分が消失したような、そんな手ごたえだった。
浅香はさらに返す刀で、より深くパンティーを化け物の身体に通した。
化け物の腰が消失した。
化け物の上半身が、折れるように倒れた。
その断面からは赤黒く濡れて光る内臓が覗いている。

流石に立ちあがれまい。浅香は少し離れて化け物の様子を見守った。しばらく突き出された右手の指がピクピクと動いていたが、しばらくしてその痙攣も収まった。

勝った。浅香は地面に座り込んだ。土の湿った感触が尻に伝わる。
そして自然な動作でパンティーで額の汗を拭おうとして、寸前で止めた。

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