2019年6月15日土曜日

ぬぬぬ4

結局、これは何なんだ。
浅香は手元のパンティーを見つめた。化け物の肉体をほとんど分断せしめたその布は、何事も無かったように白くそこにある。

今のは夢だったのではないか。それもとびきりの悪夢。浅香は化け物の死体に目を向けた。生命活動を停止したそれは、現実としてそこに存在している。流石にもう動くことはなさそうだったが、それでも浅香はそれに近づく気にはなれなかった。

死。ついこの前まで、浅香に最も近い距離で起こった死は祖母のそれだった。死を看取ったわけでもない。ただ全てが終わったあとに病院に駆けつけ、通夜をして、葬儀に参加しただけ。だがそれでも、それから当時7歳の浅香はいずれ来る死について考えざるを得なくなった。
死ぬのは嫌だ。嫌すぎる。
だから考えるのをやめた。
忘れた。そして、忘れていたからこそあの時トラックの前に飛び出すことができたのだ。

飛び出してから、後悔した。
死は恐ろしいものだったのだ。なぜそんな当たり前のことを忘れてしまっていたのだろう。なぜ他人のために今俺は死につつあるのだろう。
浅香は悔いた。
死ぬほど後悔した。
で、実際死んだ。

そんな風に自身の死を経験して、そして今さっきもう一度死にそうになった時、浅香の胸の内にある感情が芽生えた。
恐怖だ。
しかし、それはそこにある死を恐れてのものではない。あるいは、予期できる苦痛を想像しとて震えた訳でもない。
それは、自分がそこまで死を恐れていないことに対する恐怖だった。

死が怖くないって、バーサーカーかよ。
まあバーサーカーってかっこいいけどさ。死を恐れない戦士って、なんかすごいじゃん。
でもさ、母さんが言ってたぜ。自分の命ですら大切にできないやつが、他人の命を尊重できるわけがないって。

いずれ、自分は他人の命を奪うことにさえ鈍感になってしまうのではないか?
そんな不安が浅香の中に生まれていた。
少なくとも、まだ自分は負い目を持てている。化け物でも、魔物だとしても、生物を殺したのだという負い目を。浅香は動かない死体に目をやりつつ考える。
けれどこれがいつか、人間を虫みたく殺すようになるのかもしれない。
浅香はパンティーを強く握りしめた。

……パンティーを。

そうだ。結局、これは何なんだ。浅香は気を取り直して、パンティーについて考えることにした。死について考えるよりはよっぽど気が晴れる。
あの絶大な威力を見るに、やはり武器なのか。触れるだけで対象を消失させるような武器なんて聞いたこともないが。
しかし、このパンティーは浅香の傷を治すという効果も見せた。改めてこめかみを触ってみると、やはり傷は跡形もなく治ってしまっている。
このパンティーは化け物の身体に対しては害を与えたが、浅香の身体には益をもたらした。一概に武器とか防具とかで括ることは出来そうにない。

結局、これは何なんだ。

「大丈夫ですか、浅香さん!」

そんな声がしたので、浅香は顔を上げた。そこにはいつの間にかエルレシアが立っていた。エルレシアは浅香の顔を見ると安堵したような表情を浮かべた。

「よくぞご無事で……」

浅香の目にはその緩み切った顔がひどく人間染みたものに写った。

「エルレシアさん」

浅香はパンティーをずいとエルレシアの方に掲げる。

「これは何ですか?」

それを聞いてエルレシアは顔を赤らめた。

「えーと、その、これは──」

エルレシアはひどく言いにくそうに口ごもっていたが、やがて小さな声で言った。

「ショーツです……」

パンティーだった。



「事情はあとで説明します。とりあえずこの森を出ましょう」

エルレシアはそう言って、浅香の手を取り立ち上がらせた。手の温もりと柔らかさを感じる。浅香はそれらを堪能しつつ礼を言って立ち上がる。エルレシアは恥ずかしそうに目を伏せていた。

「えーと……」

エルレシアの視線は浅香の右手に向いている。

「……何か変なこととか……しました?」
「変なこと?」
「その……それで」

エルレシアは浅香の右手を指した。正確にはそれが握りしめている布を。

「まあ……変なことならしまくりましたね」
「しまくった!?」
「投げてみたり」
「投げた!?」
「埋めてみたり」
「埋めた!?」
「熊を退治してみたり」
「熊を……って 」
「あれです」

浅香はそこの死体を指さした。そちらを振り向いて、エルレシアの表情が驚きに変わる。

「アウルベア……」

エルレシアが呆然と言った。あれはアウルベアというらしい。owlのbearか。まんまじゃないか。

「あれが魔物ってやつですか?」
「そうです。あれは強力な魔物です」
「……どれくらいですか?」
「ドラクエ2のマンドリルくらいです」

ああ、それはエルレシアが驚くのも分かる。少なくともただの人間がタイマンで勝てる魔物じゃない。……結構序盤の敵だけど。

「エルレシアさん、ゲームとかやるんですね……」
「あいにく時間だけは沢山あるもので……それはともかくとして」

エルレシアは浅香に向き直った。その碧い眼には浅香を問い正そうという意思が見えた。

「あれをどうやって倒したのですか。武器も無しに人間が勝てる相手では……」
「いえ、武器があったので……」
「武器?」

エルレシアは不思議そうな顔をして、浅香の腰回りを見た。浅香は丸腰だ。右手の布を除いて。
浅香はパンティーをひらひらと振った。エルレシアはしばらくそれをきょとんと眺めていたが、段々と顔をトマトのように赤くした。

「私の下着を武器に使ったのですか!?」

ああ、この人の下着だったのか。道理でやたら神々しいと思った、と浅香は納得する。

「すみません、そうとは知らず……防具だったんですねこれ」
「ま、まあ防具と言えば防具ですね」
「頭防具ですか?」
「腰防具です!」

この人からかうと面白いな。ぷりぷりと怒るエルレシアの姿を見て、浅香は思った。同時に、浅香の内に一つの疑問が急速に湧き上がる。
今、この人、はいてないのか?
無意識的に浅香の視線は下に向かった。エルレシアは白いガウンのような服装をしていた。エルレシアの腰に下着の線が浮いていないのは、服がゆったりとしているからか、それとも──

「浅香さん! 聞いてますか!?」

エルレシアの呼ぶ声に浅香はびくんと身体を揺らすと、慌てて正面を向いた。エルレシアはいかにも「私は怒っています!」と言わんばかりの表情を浮かべている。短い付き合いだが初めて見た表情だ。最初に会った時の超然としたような雰囲気は感じられない。
それも当然かもしれないと浅香は思った。下着も穿いてないくせに神らしく振る舞うなんて、不可能だ。
それに傍から見ると、パンツも穿いてないやつが偉そうに振る舞うなんて滑稽でしかない。どれだけ荘厳に振る舞われても、どれだけもっともなことを言われても、「でもお前パンツ穿いてないじゃん」で終わりだ。

「いいですか、もう人の下着で遊ぶのはやめてくださいね!」
「はい」

でもこいつは今穿いてない。

「私は怒っているんですよ! 本当に反省していますか!?」
「はい」

でもこいつは今穿いてない。

「……分かりました。では、その下着を返して貰えませんか?」
「嫌です」
「……はい?」

エルレシアはきょとんとしたような顔をしている。鳩が目前でマグナム弾でもぶっ放されたような顔。

「やです」

ダメ押しと言わんばかりに浅香は言った。
エルレシアは浅香が言うことを聞くと疑っていなかったらしい。彼女は明らかに動揺しつつも口を開く。

「そ、それは私の下着なんですよ? 持ち主の元に返すのが筋ってもんなんじゃ……」
「でもこれは私が願って手に入れたものですよ。今は私のものです」
「だ、だからって……」

エルレシアはそう言ったきり黙った。反論のしようが無いのだろう。浅香の主張は筋が通っている。エルレシアは「要望を叶えられるよう最大限努力する」と明言した。ならばエルレシアはパンティーを手放さなくてはならない。それこそが努力だ。
浅香はエルレシアの様子を窺っていた。エルレシアの肩がぷるぷると震えている。寒いのかな? パンツ穿いてないから。浅香がそう考えたとき、エルレシアはパンティーを持つ浅香の右手に飛びかかってきた。

「うわっ」
「返してください!」

浅香は咄嗟に右手を頭上高くに挙げた。エルレシアは負けじとぴょんぴょんと飛び跳ねてパンティーを奪おうとする。しかし身長差もあって浅香から奪い取ることはかなわない。
いじめっ子にでもなった気分だ。持ってるものがパンティーだというのがあまりにもひどすぎる気がしたが。
しばらくして直接奪い取るのは無理と判断したのか、エルレシアは浅香の胸をぽかぽかと殴り始めた。割と痛い。

「返して!」

エルレシアは必死に言う。その様子からはかつての神らしさはまったくもって感じられない。ただのガキだ。

「自分の手で取り返すことですね」

気分が乗ってきたのか、浅香はそう軽口を叩きつつパンティーを持つ右手を頭上で振り回した。自分でも子供っぽいと思ったが、先に強奪という幼稚な手段を用いたのはあちらなのだ。

「私は神様なんですよ! 人間風情が逆らわないでくれますか!?」

エルレシアが懸命に訴えかけるように言う。今にも泣き出してしまいそうな声色に浅香の心は少し同情に傾いたが、それ以上に少しカチンと来た。

「うるせー! パンツも穿いてねーくせに偉そうなこと言ってんじゃねー!」

今まで一応使っていた敬語もなく浅香は言った。
それを聞いて、エルレシアは愕然としたような表情になった。彼女も今思い出したのかもしれない。自分が今穿いていないということに。いつもより風通しのいい股間に。自分が到底人に説教できるような状態にないことに。
そして恥じたのだろう。パンツも穿いてない癖に神を名乗り、他人に命令しようとした自分を。

「わ、私は……」

浅香は気がついていた。エルレシアからかつての神性が感じられないことに。それには、パンツ無しに堂々と振る舞える者などいない、ということ以上の理由があるのではないか。
このパンティーは、エルレシアの神性そのものだ。
神聖なのだ。
神聖であるがゆえ汚れを払い、穢れを祓う。
エルレシアが神たる所以こそが、このパンティーなのだ。女神エルレシアは神を奪われた今、ただの女に成り下がっている。

「私は穿いてなくなんか──」
「穿いてない」

浅香はエルレシアの言葉を遮るように言った。

「穿いてないんだ」

自分でも驚くほど優しい声で浅香は言った。

「まずそれを認めないと、前に進めない」

エルレシアは静かに浅香の言葉を聞いていた。目元に涙を湛えながら、それを零さないように浅香の顔を見上げて。

「私は──」

エルレシアは言った。

「──私は穿いてない……」
「言えたじゃねえか」

浅香は優しくエルレシアの頭に手をやった。エルレシアの頬になにか温かいものが流れた。浅香はそれを、パンティーで拭った。

「今は……今だけは泣いていいんだ」

エルレシアは浅香の胸でわんわんと泣いた。

……

……

……何これ。

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