Namboid
難波くんは電気羊の夢を見た。
可愛い電気羊が目の前で美味しい電気ジンギスカンにされるのを、機械的に見ている夢だった。動物好きの難波くんにとってそれは間違いなく悪夢であった(電気羊が動物であるかどうかは別として)。そして電気ジンギスカン鍋の上で電気肉汁がじうじうと音を立て始めた時、その夢は雲のように掻き消え、難波くんは布団の上で目を覚ましたのだった。
意識を取り戻したのち、難波くんは冷たい朝の空気の中にくすんだ天井を見つめていた。耳の奥にはまだじうじうという音が燻るように残っていた。
(アンドロイドは電気羊の夢を見るか?)
難波くんはその小説を読んだことは無かったが、タイトルだけは知っていた。
(もしかすると僕はアンドロイドなのかも知れない)
そんな考えが難波くんの頭に浮かんだが、その数秒後には消えた。あまりにも馬鹿馬鹿しい。そんなことを一瞬でも考えた自分がなんだかおかしく思えた。 実際難波くんはアンドロイドなのだが、そのことに彼は気付いていない。
難波くんはおもむろに自身の体を起き上がらせると、枕元の携帯電話を手に取った。液晶に主張する文字が示す時刻は、彼がいつも起きる時間より少し早かった。
(Androidの語源は確か――)
再び布団に体重を預けると、難波くんは液晶に指を滑らせる。「Android 語源」と検索窓に入力すると、即座に検索結果が表示された。
(「andro」が「人間」で、「oid」が「ようなもの」)
「人間のようなもの」。
それすなわち「人でなし」である。
(まともな人間は電気羊が焼かれる夢など見まい)
そういう意味では自分もアンドロイドかもしれない。検索結果の一番上に表示されたWikipediaの「人造人間」の項目を眺めながら、難波くんはそんなことを考えていた。
記事を一通り読み終わると、難波くんは携帯を傍らに置いて手を布団に突っ込んだ。冬の朝の空気は恐ろしいほど冷える。その冷たさは、彼に暫く布団から出ないことを決意させるには十分だった。
(本当にこの手には血が通っているのか)
そう思われるほどに難波くんの手は冷えていた。
唐突に、賑やかな音が部屋の空気を裂いた。それは難波くんの携帯から鳴っている。着信だ。慌てて画面を確認すると、そこには「青木」の文字があった。それを確認すると難波くんは思い切り顔を顰めた。その名前は彼が知る最悪のアンドロイド――人でなしのものだったからだ。
(出るべきか、出ざるべきか)
あまり気が乗らないが、こんな時間に電話をかけてくるとは緊急の用事かもしれない。仕方なく難波くんは応答の操作をした。
「――もしもし?」
「ああ難波くん? おは」
脳天気な声がスピーカーから聞こえた。その響きから緊急を要する話ではないらしい。難波くんはすぐに電話を切ってやろうかと思ったが、思い留まり話を聞くことにした。何故ならこの男、青木くんが難波くんに電話をかけることなど滅多に無いのである。何か面白いことが起こったのではないか。そんな期待が難波くんの中にあった。
「朝っぱらからなんだよ。君の声なんて朝っぱらから聞きたくないんだ」
「そうつれないことを言うなよ。いやそれがな、面白い夢を見たんだよ」
夢。そんな事のためだけにわざわざ電話を掛けてきたというのか。そう悪態をつきながら、難波くんは彼が先程まで見ていた夢を思い浮かべていた。
(あれは――面白い夢だろうか?)
悪趣味な夢だ。難波くんはそう思っていた。しかし、この電話の向こうの悪趣味な男はあの夢をどう表現するだろうか。難波くんの中にある不安が芽生えた。
「まさかとは思うけど……」
難波くんは言った。
「その夢って電気羊が電気ジンギスカンになる夢じゃないだろうね」
しばしの沈黙のあと、青木くんのケラケラと笑う声がスピーカーから流れた。それを聞いて難波くんはどこか安心していた。彼は自分のこの不安を、馬鹿げていると完膚なきまでに叩き潰してくれるに違いない。そんな期待を抱きつつ、青木くんの答えを待っていた。
「おいおい、そんな馬鹿な……ハハ……」
青木くんはひとしきり笑ったあと言った。
「お前能力者だったのか」
難波くんは自分がまだ夢を見ていると思った。
「僕も同じ夢を見た」
難波くんは努めて平静を保ちつつ言った。
「不思議な話だ」
難波くんはこれが、今見ているこの場面が夢かとしれないと気が付いた。二人の人物が同じ夢――――それもかなり特殊なそれを見る可能性なんて限りなく低い。恐らく、現実の自分はこの部屋でまだ寝ているのだ。彼はそう考えていた。現実の難波くんなんてどこにもいないというのに。
「まじか」
青木くんは心底驚いたようにして言った。
しばらくの沈黙の後青木くんは続けた。
「……まあ夢だしな」
「やっぱり?」
やはり夢なのだ。難波くんは安堵していた。そう、こんなことが現実で起こっていいわけが無いのだ。
「しかし……」
青木くんは言った。
「これは誰の見ている夢なんだ?」
気が付けば難波くんは海岸にいた。青い空が頭上に広がっていた。難波くんの家の汚い天井はまるで夢のように消え去っていた。難波くんはこれが夢であると半ば確信した。
難波くんは波打ち際浜辺まで行くと、その海水に触れようとした。それは液体ではなかった。凍っている。しかし冷たくはない。波打たない奇妙な海は静寂に包まれていた。
難波くんは恐る恐る凍った海に踏み出した。海は大地のような安定感で難波くんを迎えた。どうやら凍っているのは表層だけではないらしい。何より不思議だったのはその氷が全く滑らないことだった。この世界では表面融解は起こらないようだ。
難波くんの後ろで青木くんが言った。
「……まあ夢だしな」
難波くんは歩いた。
青木くんは言った無言でただ考えていた。どうすればこの先が面白くなるのかを。
難波くんは凍った海に座った。そして自分が来た方角をしばらく見つめた後、水面に寝転がった。
空は青かった。雲は白かったが、動かなかった。輝く太陽もまた動かなかった。なぜ光は止まっていないのだろう。そう考えた瞬間、世界は闇に包まれた。余計なことを考えた。難波くんは後悔した。