2019年6月19日水曜日

ぬぬぬ5

「とりあえず、森から出ましょう」

飽きるほど泣いたあと、エルレシアはそう浅香に提案した。浅香としては反対する理由もないので「そうだな」と頷く。

「でも、どちらに行けばいいのか分かるのか」

浅香は辺りを見渡して言った。周りは木々が視界を埋めつくしており、当然方角を示すような目印も無い。太陽すら何重にも覆い被さる葉に隠されてしまっているのだ。
だがエルレシアは自信満々の表情で言った。

「分かりますよ、ほら」

エルレシアは背中に背負っていたものを下ろす。背嚢だ。エルレシアはその中身を漁ると、やがていつか見たガイドブックを取り出した。その1ページ目を開く。そこには何か紙を折りたたんだものが挟まれていた。
エルレシアがそれを地面に開くと、A1サイズくらいの大きさになった。紙面には海岸線らしき線がひょろひょろと伸び、デフォルメされた木や山などが連なっている。地図のようだ。

「今私たちがいるのがここです」

エルレシアの指し示した場所には、赤い光点が頼りなげにゆらゆらと揺れていた。

「これは?」
「現在地点です。魔法の一種で表示しているんです。方角もわかりますよ」

GPSも無しにどんな原理だよ、と思ったが魔法と言われてしまえば納得する他ない。魔法は基本的になんでも出来る、というのはファンタジーの鉄板だ。
浅香は地図をよく検める。現在地を示すらしい光点の周りには、森を表しているのであろう木々が描かれている。ちなみに地図上の至る所に森は描写されており、全体の6割近くは森になっているようにも見えた。まあ日本もそれくらいが森だと言うしそんなものかもしれない。

「そして街はここです」

エルレシアは改めて光点から1cmくらいのところを指した。割と近そうだ。
……近そう?
浅香の脳裏に嫌な予感がよぎる。

「えーと、これ、世界地図だってオチじゃないよな?」
「まさか! そんなはずないじゃないですか」

エルレシアは笑って浅香の不安を否定した。浅香は安堵してひとつため息をついた。

「だよな。まさかそんな馬鹿なこと……」
「大陸地図です」

大陸地図。
あーよかった、世界地図じゃなくて。
……とはならない。

浅香は地図の縮尺を確認した。
1/8000000。ということは、地図上の1cmは8000000cmになる。8000000には0が6つある。それから5つ取り除くと80。

「街まで80km……」

浅香は呆然と口に出していた。
JRの甲子園口駅でも甲子園まで約2kmだぞ。その2kmでも歩くとなると結構きついのに、その40倍となるとどうやったって徒歩では一日では無理な距離だ。
一日で行けないということは、途中必ず夜を迎えることを意味する。この魔物の跋扈する世界で野宿。絶対に無理だ。

「安心してください浅香さん」

浅香の絶望的な表情を見て、エルレシアが自信を湛えた表情で言った。

「私がテレポートしますのでそもそも距離など関係ないのです」

エルレシアは物体をある地点からある地点に、瞬間的に移動させることが出来る。そう言えば彼女は先程も突然森に現れたし、それ以前にも浅香は彼女がその能力を行使しているところを見ている。浅香はひとまず胸を撫で下ろした。
エルレシアは地図を再び畳み、ガイドブックといっしょに背嚢にしまった。そして遠慮がちに浅香の服の袖をつまむ。

「じゃあ準備はいいですか。行きますよ」

浅香はこの世界に送り出された時の感覚を思い出した。もう一度あれを味わうことになるのか。あまり気分のいいものではなかったが、贅沢は言えない。浅香は頷いて応えた。
エルレシアは何事かをぶつぶつと唱えると目をつぶった。それに倣って浅香も目を閉じた。

しばらくそのまま時間が経った。もしかして、もう転移しているのか。浅香はそう考えて薄目を開けた。だが未だ周りの景色は木々でいっぱいである。その中でエルレシアは目を閉じて一生懸命うんうんと唸っていた。何だか出そうで出ないものをひり出そうとしているように見える。
ひとしきり唸ると、エルレシアは肩を落として言った。

「……しかしMPが足りない」
「ルーラでMPが足りないってどういうことだよ……」

浅香は思わず言った。エルレシアはそれに対してムッとした表情で言い返した。

「ルーラは一応古代魔法って設定なんですよ! だからドラクエ5くらいまではMP8くらい必要だったでしょ!」
「最近のはMP消費無しで使えるだろ」
「ゆとり仕様は認めません!」

ゆとり仕様というか、単に不便だったから改善されたんだろう。浅香は声に出すことなく反論した。

「そもそもルーラは高速で目的地まで飛ぶ魔法ですから、私のテレポートとはそもそもが違います!」
「分かった分かった……」
「リレミトでもありませんよ!」
「分かってるって……」

浅香はエルレシアの主張を認める。このまま言い争っていても、状況が好転することはないと分かっていたからだ。エルレシアは浅香の降伏に満足いったようで、そこで息を落ちつける。しかし彼女は煮え切らないような表情を浮かべていた。

「でもおかしいですね……普段ならそんなすぐにガス欠にはならないはずなんですけど……」
「パンツ穿いてないからじゃないの」
「関係無いですよねそれ!?」

エルレシアは心外だとばかりに反発したが、浅香の考えは違う。パンティーを穿いていないエルレシアは、もはや神ではないのだと彼は考えていた。神性を失ったことに伴って、MPの最大値みたいなものも大きく減少してしまっていると考えると、今の状況には説明がつく。
エルレシアはまだその考えには至っていないようだ。まあ自分の力のおおもとがパンティーだなんて、考えたくもないに違いない。

「それにしても、どうしたものか……」

80km。大阪から姫路まで行ける距離だ。JRなら乗り換えなしで一本で行けるが、歩きとなると気が遠くなる。

このパンティーをエルレシアに返せば、再びテレポートができるようになるのだろうか。もしそうならば返した方が手っ取り早いかもしれない。
だが、もし返したとしてもエルレシアがちゃんとテレポートをしてくれるとは限らない。それどころかセクハラだ何だと因縁をつけられて殺される可能性は否めない。相手は神なのだ。浅香くらい虫を潰すように殺せるだろう。
言い換えれば、今浅香は神の弱みを握っているのだ。これをここで手放すという選択肢は有り得ない。

「80kmって人間の足でどれくらいですか?」

エルレシアが訊いた。普段テレポートしかしないので、距離の感覚を忘れてしまったのだろうか。浅香は以前仕入れた知識を思い出す。

「……確か1日30kmが目安って聞いた覚えがある」

時速5kmで、食事や休憩込みで8時間と言ったところか。
浅香は空を見上げた。今のところまだ日が差している。この世界の日照時間は前の世界とそう変わらない、という記述がガイドブックにあったことを思い返す。

「今の時間は?」

浅香はエルレシアに尋ねた。同時に浅香は自分が、時間が分かるようなものを何も身につけていないことに気がついた。浅香が死んだ時にはカバンを持っていて、その中にスマートフォンが入っていたはずだがそれはどうなったのだろう。

「えーと、多分午前9時ってとこですね」

午前9時ということはまだ十分に明るい内に活動できそうだ。今から出発すれば30km歩けるかもしれない。

「よし、出るか」

浅香は次いで「どっち?」と訊いた。エルレシアがある一方を指さす。

「ありがとう、世話になった」

浅香は「じゃ」と言ってエルレシアの指した方向へと、歩き出した。

「いやいや、何ひとりで行くつもりなんですか」

浅香の背中に向かって、エルレシアが慌てた様子で言った。浅香は振り返る。

「え、ついてくんの?」
「自分の下着がどう使われるのか不安で不安で……私が監視させて頂こうと思いまして」

別に変なことに使うつもりは無い。精々魔物を退治するくらいだ。間違っても穿いたり被ったりする予定は無い。

「……仕事あるんじゃないの?」
「有給取りました」

いや、有給って原則前日までに申請しないとダメでしょ。よっぽどホワイトなんだな異世界転生局。
浅香はその優良企業ぶりに思わずため息をついた。

「ほら、行きましょう」

エルレシアはそう言って、浅香の袖を引っ張った。
その顔はやけに楽しそうだった。以前見た口元だけ笑ったアルカイックな笑顔ではなく、満面の笑み。
人間らしい顔だった。

「元気だなあ」
「せっかく有給取ったんですから、時間は無駄にできません!」

「さあ!」と袖を強く引かれ、浅香は少しのめる。
エルレシアの様子に昔の妹を思い出して、浅香は密かに笑った。浅香はいつも彼女に手を引かれて遊びに出たものだった。浅香は放っておいたら家にこもりきりになるので、それを見かねた妹がよく外に連れ出したのだ。
神を名乗るからして浅香の数倍年上であろう目の前のエルレシアが、妹のような態度をとることがひどくおかしくて、そして好ましく感じる。

「じゃあ行くか」

浅香はエルレシアと同じ方向に歩き出した。
俺たちの冒険はこれからだ!

……

「……ところで有給ってどれくらい取ってんの」
「2年です」

どうなってんの異世界転生局。

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