ぬぬぬ7
浅香たちは森を抜け、平原を歩いていた。整備されているとは言い難いが、一応草を刈られた道が存在している。エステルはこの道を馬で駆けてきたのだろう。今は彼女は馬を引連れて歩いている。馬は文字通り道草を食いつつ歩いていた。
「平原にも森があるんですね」
浅香は物珍しそうに遠くにある森を見た。浅香には森のイメージが富士山の麓の青木ケ原樹海くらいしかない。平野に森が広がる光景は新鮮だった。
「珍しいですか? 大体森ってこんなものだと思いますが」
エステルが不思議そうな顔をして言った。
「あー、山の手の出身なもので、山麓にある森しか知らなかったのです」
「なるほど、そうでしたか」
エステルは納得いったふうに頷いた。
彼女によると、この周りにはこのような森はかなり多いのだという。というかやはり地表の6割ほどは森に覆われているらしい。ほとんど開発は進んでいない。その理由としては魔物がいるということもあるらしいが、主な要因としては──
「エルフ?」
「はい。まあ彼らからすると森は住処そのものなので仕方ないのかもしれないですが……」
そう言えばガイドブックに、多種多様な人種がいると書いてあった気がする。エルフが「人」なのかは知らないが。しかし聞いている限りちゃんと共存できているとは思えない。
「森の伐採をめぐって一度エルフと戦争が起こったこともあるのですが……ご存知ありませんか?」
「あはは、世間知らずなもので……」
なんかいきなりボロを出しまくっている気がする。そら文化も歴史も知らない世界に放り込まれたらこうなる。
エステルは浅香を訝しげに見つめていた。浅香は助けを求めてエルレシアの方に目を向ける。エルレシアの姿は無い。浅香が後ろを振り返ると、エルレシアは浅香とエステルにかなり遅れて一人歩いていた。
浅香はひとつため息をつくと「ちょっと待って頂けますか?」と言った。エステルが了承すると、浅香はエルレシアのもとへと向かう。
「大丈夫か?」
「す、すみません……あまり歩き慣れていないもので……」
「普段からファストトラベルばっか使ってたら、いざ必要な時に道を忘れるみたいなものだな」
「ちょっと違う気がしますが……」
「その後ろのやつ持つから、寄越せ」
浅香はエルレシアの背嚢を指した。エルレシアは最初固辞していたが、浅香が「いいから」と言うといそいそと荷を下ろした。浅香はそれを背負う。重い。なんだこりゃ。一昔前の不良みたいに鉄板でも入れてるのか。
「何入ってんのこれ」
「お弁当とか、水筒とか、レジャーシートとか、折り畳みの机とか、あとバドミントンのラケットとシャトルとか、あと色々です」
「お前のカバンはドラえもんのポケットか?」
「まあ、そんなものかもしれません。そのカバンは体積を気にせずものを詰め込むことが出来るマジックアイテムなのです。ちなみに耐久重量は300kgです」
なんて便利な道具なのだろう。300kgなら曙どころか小錦でも入れられるんじゃないか。いや、力士をカバンに入れなきゃいけない用事なんて、死体遺棄くらいしか思い浮かばないのだけれど。
今のカバンは20kgくらいの重さがあるように思える。エルレシアが今挙げたような物品だけではそんな重さには至るまい。「あと色々」って何が入ってるんだよ。ちゃんと持っていくものは事前に取捨選択しなさい。おやつは150円まで。
まあそれは今はいいか。あとでバドミントンしよ。浅香は背嚢をしっかりと背負い直した。
「そう言えば今、エルフとの戦争の話になったんだけど、何か知ってる?」
「100年くらい前に大きな争いがあったのですよ。森の木を切る切らないで。戦争は長期間に渡り、それで人もエルフもお互い疲弊してしまったので、伐採量に制限をつけることで折り合いがついたのです」
そうは言うが、それってエルフにものすごく不利な約束じゃないか。木は切ってしまえば直ぐには生えてこない。少しずつとはいえ、切っていけばいつかは森はなくなってしまう。そうなればエルフはどこに住むのだ。
浅香の納得いっていないような表情を見てエルレシアは補足を入れた。
「エルフは今はある森にまとまって住んでいるのです。ここからもっと北の『聖なる森』とかなんとか言われている森なのですが……そこ以外の森なら少しずつ切ってもいいということになったのです」
ヨーロッパの森林は中世のうちのある200年の間に現在の面積くらいまで減ったという。こっちの世界では規制がなされている分その時のペースよりは遅いであろうが、それでもやはり森が無くなるのは時間の問題だ。
森が無くなる前に木炭に変わる燃料、例えば石炭へと転換が始まるだろうか。あちらの世界ではそうはならなかった。森林資源が枯渇したから、石炭が使われはじめたのだ。人間は追い詰められなければ変わることができない。
いや、俺が主導して転換を行えばいいのか。異世界転生の主人公みたく。となると、そうだなまずコークス炉を造って……いやコークス炉ってどうやって造んの。そんなの知るわけない。
いや、よく考えるとそもそもこの世界には魔法があるのだ。炎の魔法くらいあるだろう。となると、あまり燃料としては木は必要とされていないのか。ここで問題になっているのは建築資材としての木なのだろうか。そもそも資源としてではなく、農地面積が足りないから森を切り開く、という話なのだろうか。うーんわからん。
浅香が勝手に頭を悩ませつつ歩いていると、ちゃんと待っていてくれたエステルのもとに辿り着いたようで、彼女がエルレシアに声をかけた。
「お疲れでしたら、馬にお乗りになりますか?」
「いえ、結構です。ありがとうございます」
エルレシアは断った。
ちょっと乗ってみたいな。浅香はそう思ったが口には出さなかった。
「お二方は……ファーラ伯領の人ではありませんよね。一体どちらからお越しになったのですか?」
エステルが訊いた。当然の疑問であった。浅香があまりにも世間知らずを晒しすぎた。
浅香は「助けてくれ」とエルレシアに目で訴えた。それを受けてエルレシアは口を開いた。
「えーと、東の方です」
「東と言うと……ベイトの方ですか」
「いえ、もっと東の、なんというか、もういっそ別の大陸です」
「別の大陸! それはまた遠いところから……」
エルレシアの嘘の稚拙さに思わず苦笑いを浮かべつつ、浅香は今の会話について考えた。
「ファーラ」とか「ベイト」とか言うのは恐らく地名だろう。ファーラ伯領ということは、そこを治めている領主がいるということだ。文脈からするとエステルの仕えている主とはそのファーラ伯爵やら男爵やらだろう。……そういや伯爵と男爵って何が違うんだっけ?
というか、よくよく考えるとこの世界の社会システムについて知らないことが多すぎる。封建制なのは分かるが、王の権力はどれくらいなのか。自由主義経済なのか。国家間の仲はどうなのか。なんにも分からない。後で色々とエルレシアに聞いておこう。
浅香が色々考えつつ歩いていると、エステルが浅香に声をかけた。
「すみませんが、少しこれを持っていて頂けませんか」
エステルはそう言って、手に持っていた槍を差し出した。浅香は、突然何だろう、と少し不思議に思いつつも槍を預かった。改めて見ると、これはいわゆるランスではなくスピアだ。馬上で使うものでは無い。森の中でアウルベアと戦うことを想定しての武器の選出だろう。
エステルは槍を手放し、自由になった手を腰の剣にかけた。
「どうかしたのですか」
浅香は尋ねた。
「向こうにゴブリンがいます」
浅香がエステルの視線の先に目を凝らすと、100mほど先に何か二足歩行の生物が複数いるのが見えた。あれがゴブリンか。遠くてよく大きさは分からないが、人間の腰くらいの高さに見える。
エステルは剣を抜き、その短い刀身を晒した。せっかく槍があると言うのに使わないのだろうか。
浅香は剣道三倍段という言葉を聞いたことがある。剣を持つものが槍や薙刀などの長物を持つ相手に勝つためには、相手の三倍の力量が必要であるということらしい。つまり、剣よりも槍の方が強いのだ。素人目にも浅香はそう思う。それに、エステルの持つ剣は明らかに通常のものより短い。それならば槍を振り回した方がリーチの関係上有利なのではないか。
「片付けて参りますので、暫くお待ちください」
エステルはそうだけ言うと、剣を片手にゴブリンたちの方へと歩き出した。
ドッ。
瞬間、そんな音がした。
そして次の瞬間には何も聞こえなくなる。
爆発。浅香は直感的にそう思った。
反射的に目をつぶった浅香の頬に爆風が吹き付け、吹き飛んできた土くれがべちべちと当たる。
なんだこれは、ゴブリンの攻撃か? いや、エステルが何かをしたのか?
耳鳴りがきぃーんと響く。やがて、パラパラと土が落ちる音が聞こえてきた。
それが落ち着いた頃を見計らい、浅香はゆっくりと目を開く。
エステルは未だ一歩目を踏み出したところに立っていた。だが、右手に握っていた剣を取り落としている。
次いで浅香は向こうのゴブリンがいた所に目を向けた。
そこには何も無かった。
跡形もない。
ただ爆心地から半径数mの土がえぐれ、クレーターのようなものができていた。
浅香はエルレシアを振り返った。エルレシアは両手を前に構えた状態でそこにいた。
「今のはメラゾーマではない……」
エルレシアはドヤ顔で言った。
「イオナズンだ……」
結構奮発してるじゃねえか。
そう軽口を叩こうとした浅香を、凄まじい悪寒が襲った。
ついさっき、エルレシアがこんなことを言っていた。
曰く、MPが足りないのでテレポートができない。
だと言うのに、今彼女はルーラどころかイオナズンに準ずる魔法を放つのに成功した。
何故こんなことが起こったのか。
簡単なことだ。
エルレシアはこうも言っていた。彼女のテレポートは瞬間移動であり、単に高速で飛ぶだけのルーラとは一線を画す、と。
確かに「爆発を起こす魔法」と「瞬間移動する魔法」はどちらも同じくらい不可能に思えるが、現象のみを捉えるとそうはならない。爆発は現代の科学でも容易に起こすことができるが、テレポートはできていない。
テレポートをするためには、つまり時空を湾曲させるためには、宇宙に存在する全エネルギーの100億倍が必要となると浅香は何かで読んだことがあった。
宇宙の100億倍。想像もつかない。
そう、エルレシアは神なのだ。
浅香は忘れていたが、エルレシアは宇宙をも超越した存在なのだ。
エルレシアは転移の前に何度か浅香にテレポートのデモンストレーションを見せている。その度に、エルレシアは宇宙100億個分のエネルギーを消費していたのだ。
恐ろしい。自分はなんて存在にタメ口を叩いていたのだろう。浅香は背筋に底冷えするような感覚を覚えた。
今のエルレシアはパンティーを失い、その無尽蔵とも言えたエネルギー量に制限を受けている。
そして少なくとも今現在彼女は、宇宙の100億倍のエネルギーに匹敵するほどの力は持ち合わせていないということは分かる。
しかし彼女は一度、パンティー無しでそれだけのエネルギーを使っているのだ。浅香を追いかけて森に来た時、彼女は明らかにテレポートを行使していた。
パンティー無しでも、エルレシアはそれくらいできたのだ。
エルレシアは、化け物だ。
パンツ穿いてなくても、化け物だ。
……
……そうだ。
でもこいつパンツ穿いてないじゃん。
なんで自分は今パンツ穿いてないやつを恐れていたんだろう。宇宙100億個分のエネルギーとかいうけど、でもパンツ穿いてないじゃん。あーよかった。こいつがパンツ穿いてなくて。これでパンツ穿いてたらどうしようもなかったけど、パンツ穿いてねーもんなー。セーフセーフ。つーか宇宙超越してるくせにパンツ穿いてないとか恥ずかしくないのかこいつは。恥を知れ、恥を。そもそもノーパンはパンツ穿いてないことを恥ずかしがってるからこそ映えるわけで、開き直ってたら何にもならねえじゃねえか。つーかそもそも、こいつパンツ穿いてないなって分かっちゃったらそこまで興奮しないだろ。もしかしてこいつパンツ穿いてないんじゃないか、ていうのがいいんだろうが。シュレディンガーだよシュレディンガー。パンツ穿いてる状態と穿いてない状態が重なり合い、実際に観測するまで事象は収束しないんだよ。確かに普通に考えれば、観測者がいなくてもパンツの有無は既に決まっているはずだし、もちろん外部からの衣服の観察、あるいは当該人物の様子を観測、そして統計処理によってパンツの有無を確定的に予想することだって可能だ。それでも、やはりそれでも、見るまでは分からんだろうが。でも、こいつは穿いてないんだ。穿いてないと分かってしまっているんだ。なんて不自由なんだろう、こいつは。絶対にパンツを穿くと主張するやつや、絶対にパンツを穿かないと標榜するやつは、パンツを穿いたり穿かなかったりするやつと比べて、明らかに不自由だ。選択の余地を欠いている。パンツに絶対優位も、ナッシュ均衡も無いんだよ。混合戦略を取れ。パンツ穿いたり穿かなかったりしろ。パンツ穿いたり穿かなかったりしろーー!!!!
エルレシアはキョトンとした様子で浅香を見ていた。
浅香は肩を震わせつつぶつぶつと「でもこいつはパンツ穿いてない。でもこいつはパンツ穿いてない……」と唱えている。
浅香の様子を見て、エルレシアは言った。
「また私何かやっちゃいました?」
さすがはお姉様です。
浅香は賞賛した。
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