2019年8月16日金曜日

本当に、ため息が出る。
俺は目の前に横たわるB5の用紙に目を向ける。それはついこの前実施された定期テストの答案だ。科目は数学B。ふにゃふにゃと頼りげなく書かれたΣが、哀れっぽく立ち尽くしていた。
俺はこれまで何度も繰り返したように、今一度答案を検める。そこに「間違い」があることを期待して。
赤いペンの軌跡が、左上から切り込むように右下へと向かい、そのまま右上へと跳ね抜けていく。いわゆるチェックマーク。欧米ではともかく、ここ日本では解答の間違いを示すその印が、安っぽいコピー用紙の紙面にいくつも踊っている。
というよりも、チェックしかない。
丸が、ない。
いや流石に、どこかひとつくらいは丸があるだろう。俺は目を皿のようにして紙面を凝視する。果たして、丸はその答案に存在した。
点数を示す欄の中に。
0点。
全身の力が抜ける気がした。
「えーと……浅香くん」
この悲惨な答案の作成者であるこの俺に、遠慮がちにそう声を掛けたのはこのテストの製作者である安濃先生だ。社会人にしてはまだ幼さが残るその顔を、申し訳なさそうに歪めている。その顔を見ていると、こちらが申し訳なくなってくる。なんたって、そんな顔をさせているのは俺なのだから。
「非常に、大変、はなはだ申し訳無いんだけども……」
先生の言葉を教卓の前で聞きながら、俺はほとんど放心していた。何かの間違いだろう、これは。流石に、0点は、ない。
名前順で実施されるこの答案授与式の先陣を切った俺が呆然とするのを見て、教室の学友たちがざわつく。
「うっわー赤点かよ。だっせー」
教室の端からそんな野次が飛ぶ。
その通り、赤点だよ。でも、ただの赤点じゃないんだよ。ただの赤点だったらよかったのに。
笑い事じゃないのに、なぜだか自嘲じみた笑みが浮かぶのを止められない。それを見てか先生がギョッとしたような顔をした。そして、彼女は恐る恐ると言った感じで口を開く。
「放課後、生徒指導室まで来てくれますか?」
俺はただ力なく頷いた。

窓の向こうはすでに薄暗くなりつつあった。
俺はズボンのポケットから携帯を取り出し時刻を確認する。どうやら俺は二時間近くもの間お叱りを受けていたらしい。よくもそこまで叱ることがあるものだと、生徒指導の教師にはため息が出るほどに感心してしまう。
「えーと……お疲れ様です」
散々絞られた俺を労るかのように、安濃先生はそう声をかけてきた。先生は湯気の立つ湯呑みを俺の目の前にことりと置くと、向かいの椅子にゆっくりと腰掛ける。
「ありがとうございます」
俺は礼を言うと、湯呑みを手に取った。
あったけぇ……。
何があったけぇって、このクソ暑い時期に温かいお茶を出してくれる先生の心遣いがあったけぇよ……。
生徒指導室の冷房の効きの悪さを呪いつつ、俺はお茶に口を付ける。熱すぎもせず、ぬるくもない丁度いい温度だ。この時期に飲むのに適しているかどうかは別として。しかしそれでも、心なしか気分は落ち着いたような気がした。
「あの……その……ね?」
言うべき言葉がそこに落ちているかのように机の上をきょろきょろと見渡したのち、意を決した様に先生は言った。
「こ、これより下の点数は取りようがないからね!」
「その通りです、先生」
俺がそう言うと、先生は嬉しそうに顔をほころばせる。
「そうだよ! だからこれからは上がる一方で──」
「俺より下の人間なんていません。俺が最底辺です」
先生は「うっ」と言葉を詰まらせると、再び俯いてしまった。不思議と室温が少し下がった気がする。俺は再びお茶を口に含んだ。
沈黙の中、窓の向こうの蝉の声がやけに大きく聞こえる。それを聞いてああ夏だなあ。もうすぐ夏休みだなあ、と思うと同時に、目の前の現実に打ちのめされるような心地になる。
俺の目の前の机に置かれた1枚の書類。ヘッダーに黒々と記された文字は「夏季休暇期間の補習授業の案内」。(自称)進学校である我が高校では、夏休みにも補習授業が行われている。これは基本的に希望者のみの参加となっているのだが、赤点の生徒については強制参加となる。
昼まで寝て、特にすることもなくダラダラと晩まで過ごし、風呂入ってクソして寝る。そんな輝かしい俺の夏休みの予定が、この紙切れ一枚によって音を立てて崩れ去ったのである。
「先生……俺、やりますよ」
先生は俺の言葉にハッと顔を上げた。
「俺、死にます」
「浅香くん早まらないで!」
先生はそう言って勢いよく席を立つと、その拍子に足をもつれさせてこけた。そのまま床に膝をつきつつ、こちらを今にも泣き出しそうな顔で見上げてくる。相変わらず年上のくせに庇護欲を掻き立ててくるお人だ。俺は先生を安心させるよう、満面の笑みを浮かべつつ言う。
「大丈夫です先生。八月にはお盆があるので帰ってこれます」
「何が大丈夫なの!? 何とか踏みとどまって、浅香くん!」
おいおいと俺の足に縋りついて泣く先生を尻目に、俺はこれからどうするかを考えていた。死ぬのは冗談として、このままでは普通に人生が危うい。
俺も一応(自称)進学校に籍を置く者なので、それなりに良い大学に進学をするつもりだった。それも、できれば国公立。というよりも、私立に行くような金は家にはない。
文系だとしても多くの場合、国公立大学の受験には数学が必要になる。ともすれば、俺のこの成績はかなりまずいのではないか。鞄の中にくしゃくしゃになって詰め込まれている赤点の数学IIと0点の数学Bの答案は、俺の破滅を暗示しているのではないか。そんな不安がどうしても拭えない。
「0点とったくらいで死ぬことないよ、浅香くん……。それじゃあのび太くんなんて何回も死ななきゃいけなくなっちゃうよ……」
現実にはドラえもんもひみつ道具も無いのです、先生。
小さくそう独りごちるとともに、俺の中に何やらもやもやとした気持ちが満ちていくのを感じる。それは漠然とした将来への不安というよりも、現在の自分に対する不甲斐なさといった感情だ。
何故俺は0点なんて情けない点数を取っておいて、のほほんとしているのだ? あまつさえ、死んでやるだなんて面白くもない冗談を言って、無駄に先生を不安にさせているのだ?
それこそ俺は、本当に死んでしまった方がいいのではないか?
……これ以上考えていたらどうにかなってしまいそうだ。俺はやるせなさに耐えかねて椅子から立ち上がると、窓へと向かった。それを見て、先生は顔を青くした。
「浅香くーん! 早まらないでぇ! ここ三階だよぉ! 落ちたら死んじゃうよぉ!」
俺の足に掴まる先生を引きずりつつも、俺は窓にたどり着いてはガラリと開け放つ。
ジジジジジジリジリジリジジジジ────。
窓を開けた途端、夏特有のムッとした空気と蝉の狂騒が洪水のように押し寄せてくる。俺はそれに対抗するように、夏の青空に向けて号砲の如く叫んだ。
「夏のバカヤローーーーっ!!!!」
ピシャリ────。
勢いよく閉めた窓が、魂の慟哭の余韻を断ち切る。蝉は何事も無かったかのように鳴き続けていた。
ひとつ、大きく息をつく。すっきりした。
振り返ると、先生は俺の足元でポカンとした表情を浮かべている。俺は先生の手を取り、立ち上がらせる。
「先生っ!」
「は、はいっ!」
俺が呼ぶと、先生はピンと背筋を伸ばした。
「帰ります!」
「ど、どうぞ!」
俺は机へとずんずん向かうと、その上にあった湯呑みを一息に呷る。
「ご馳走様です!」
「お、お粗末さまです!」
そのまま廊下へと通じる扉を開ける。
「先生っ!」
「はいっ!」
俺は扉に手を掛けつつ、先生の方へと向き直った。
「死ぬっていうのは冗談です。これからは頑張って勉強します。では失礼します」
俺はそう言って生徒指導室を後にした。
我が高校の校舎はカタカナの「コ」のような形をしている。生徒指導室は三階、「コ」の縦棒の北の方に位置していた。普通教室については、文系は南の横棒、理系は中庭を挟んで北の横棒に割り当てられており、文系である俺のクラス、二の五は三階、「コ」の二画目の始まりのところにあった。
俺は自分の教室へと歩みを進める。今すぐにでも帰りたい気分であったが、荷物を教室に置いてきているので一度寄らねばならない。
廊下の窓から射し込む西陽がひどく眩しい。温かいお茶を一気に飲み下したのもあってか、汗が自分の額に浮き出るのを感じた。教室は冷房が効いていたはずだ。楽園を目指して、否応なしに歩みは早まる。
「浅香くーん!」
そうして曲がり角に差し掛かろうというとき、後ろから声がかかった。振り返れば後ろから安濃先生がぱたぱたと走り寄ってくるのが見えた。
「先生」
「あの……言いそびれたことがあってね?」
先生は少しの間息を整えると、俺に書類の束を差し出した。受け取ると、確かな重みを感じる。厚さは1cmはあるように見える。その百枚ほどに達しようかという紙束は、その表紙によると「先生特製! 浅香くん用数学課題!」の名を冠しているらしかった。
「先生……これは……」
「課題を渡すのを忘れてたの」
中学の頃から数学は苦手だったが、高校生になってからは益々分からなくなった俺は、ほとんど毎回数学で赤点を取っている。そしてこの学校に入学して以来俺の数学を担当してくれているこの安濃先生は、俺が赤点を取るたびにこうして課題を渡してくるのだ。
今回もその例によって渡してくれたようだが、流石に百枚は多すぎるだろう。もしや両面印刷なのではないかと思うと、怖くて確認したくない。何としても受け取りたくない。
しかし、先生だって俺に嫌がらせをしたくてこの紙束を渡すわけではない。学校が成績劣等者には課題を出せと命令したこそ、先生は泣く泣くこれを渡すのだ。悪いのは先生ではない。いつも赤点を、そして今回ついに0点なんて点数を取ってしまった俺が悪いのだ。罪無き先生には気持ちよくこれを渡してもらいたい。俺はできるだけ努力して、なんとか引きつった笑みを顔に作った。
「夏休みの宿題ですか。分かりました、やってきますす」
俺がそう言うと、先生はきょとんとした表情を浮かべる。
「違うよ、浅香くん。これは『夏休みまでの宿題』だよ。夏休みの宿題は別に出すよ」
「えっ」
「浅香くんの成績が心配でね、私が個人的に作ったの。できればやって来て欲しいな」
そう言って先生は俺に遠慮がちに笑顔を向けた。
個人的に……?
俺は腕の中の紙束に視線を落とす。
この「先生特製! 浅香くん用数学課題!」の名に偽りはないということか? 上からの指示ではなく、先生が自分の考えのもと俺に課した責苦だというのか? もしかして、先生は俺の事が嫌いなのか?
俺が恐る恐る視線を上げると、笑顔のまま先生は紙束の表紙を取り上げる。
「今回は全部私が考えた問題で、手書きなんだよ。すごいでしょ?」
二枚目の紙には、どこか見覚えのある丸っこい文字で数式が書き並べられていた。ところどころに見られる、消しゴムの消し跡がなんだか生々しい。それを見れば、俺の先程の考えは邪推であったことがわかる。
逆なのだ。
先生は俺のことが大好きなのだ。だからこそここまで手間を尽くしてくれる。
俺も先生のことが大好きだ。だからこそ、この課題は必ずやり遂げなくてはならないという気になってくる。百枚ものプリントを課されても、その提出期限である夏休み開始まであと二週間を切っているとしても、それが俺にとって過負荷だったとしても、だ。
重い。
先生は俺に期待しすぎているのだ。確かに二週間で百枚のプリントを埋めてくるのは、人並みの学力を持つ人間にとっては不可能なことではないだろう。
しかし、実際には俺は人並みには程遠い人間なのだ。そうでなくては0点なんて取らない。
だと言うのに、先生は勘違いをしている。これくらいできて当然だと。できないはずがないと。
この浅香伊織という人間は、人並みにやれるのだと。
100枚の紙束が。物理的には600g程しかない紙束の重みが俺の全身にのしかかる。
重い。
期待が重い。
愛が、重い。
「……先生」
「なに?」
やっぱ俺、死にます。
「ありがとうございます」
俺はもう疲れてしまったらしい。
さて、どうやって死んでやろうか。
俺は先生に別れを告げると、階段を登った。
教室にカバンを取りに行かなくては、という考えはいつの間にか消え失せていた。

馬鹿と煙は高いところが好きと言うが、ならば0点を取るような馬鹿である俺が屋上へと向かうのは自然なことなのだろうと思った。
我が高校の屋上は生徒に解放されている。昼休みになると、弁当を持った生徒で賑やかになる場所でもある。夏や冬になるとめっきり人は寄り付かなくなるが。
扉を押し開くと、ぬるい風が全身にまとわりつくのを感じた。俺の他には誰もいないようだ。風通しがよく存外に過ごしやすい。心なしか、蝉の声も遠いようだった。
俺は屋上を囲むフェンスへと歩いていった。近付いてみると、見上げるほどに高い。俺が二人いても届かないくらいだ。加えて上の方にはネズミ返しのような役割を果たすようにか角度がついていて、登りきるのは難しそうだ。屋上が解放されている理由のひとつが、このフェンスなのだろう。作りもしっかりとしていて、事故なんて起きそうもない。
でも、登ろうと思えば登れないこともない。
俺は鞄をその辺に放り投げ、手の汗を制服の裾で拭うと、フェンスを掴んだ。フェンスがガシャガシャと音を鳴らす。続いて、足を掛けてみる。十分につま先を引っ掛けられることを確認したら、次は更に上の網目に足を突っ込み、腕を使って身体を持ち上げてみる。
……いける。
……いけちゃうぞ、これ。
俺は一度フェンスから手を離し、地面へと降り立った。一度落ち着こう。
本当に死んでもいいのか。さっき安濃先生は必死に止めてくれたんだぞ。それに今俺が死んだら、世間はその責任を先生に求めることになるかもしれない。いやまあ実際にトドメを刺したのは先生かも知れないが、俺は先生のことを憎んでいる訳ではないし、むしろ大好きなのだ。先生に迷惑をかけたくない。
死ぬことを踏みとどまらせる材料はそれだけではない。今頃可愛い妹が俺の帰りを待っているだろうし、ハンターハンターはまだ終わらないし、セガから新ハードもまだ出ない。
……そんなこと言ってたらいつまでも死ねないんじゃないか?
そんな下らないことを考えていると、生ぬるい風がびゅうびゅうと吹き付けてきて俺を現実へと引き戻した。
……まあ登ってみてから考えよう。
そう決心するとさっそく俺はフェンスに足を掛け、さっきと同じ要領で登っていった。やはりそれほど難なく俺の高度は増していく。そしていよいよ天辺に差し掛かると、ネズミ返しが俺を迎えた。恐らくここが一番の難所だ。汗を拭って、俺は手を天辺の方へと手を伸ばす。
……あれ? これ普通に行けるぞ?
俺はそう苦労することなく、フェンスの一番上に手を掛けることに成功した。何だか拍子抜けだ。あとはここから身体を持ち上げれば────。
……どうやって?
懸垂の要領で顎くらいまで上げることはできても、そこから上に行くことが出来ない。これは素人には無理だ。せめてフェンスに足を掛けられれば……。そうか、足を掛けられないようにするためにフェンスに角度を付けていたのか。フェンス職人の知恵に思わず感心してしまう。
登れないとなればこれ以上ここにぶら下がっていても仕方あるまい。というか普通に腕がしんどくなってきた。俺は諦めて手を離し落下する。久方ぶりの地面の、その安定感になんだか安心した。
いやー、よかった。登れなくて。もし登れちゃってたらそのまま死んじゃってたかもしれないもんなあ。フェンス職人バンザイ。それにしても、死んでやろうだなんて馬鹿なことを考えたものだ。さあ、帰ろう。妹が家で待っている。
俺はフェンスに背を向け、屋上から去ろうとした。そこで俺の目に写ったのは、自分が屋上に出るために使った扉であった。
その扉はどこに付いているかと言えば、無論校舎にである。ではもちろん、扉の高さの分だけ校舎は上に出っ張っていることになる(極端に言えば凸の字みたいになっている)。その上にできたスペースには、給水タンクのようなものが備え付けられていた。
そしてその給水タンクの上からは、フェンスの天辺に簡単に足が届きそうなのである。
……おい、フェンス職人。ちゃんと仕事しろ。お前のせいで一人の若者の命が奪われようとしているぞ。
出っ張りの横には何かしらのパイプやら何やらがあったので、登るのには困らなかった。あまつさえ、給水タンクにはご丁寧にハシゴまで付いていた。まるで死んでくださいと言わんばかりだ。
給水タンクを登り切ると、案の定フェンスの天辺はすぐそこだった。俺はゆっくりと給水タンクとフェンスの間を跨ぐようにして渡る。あとは降りるだけ。
ついに、俺はフェンスの向こう側へと降り立ったのである。
眼下に広がるのは運動場。こうも太陽が低くなれば球も見えにくいだろうに、野球部の連中は白球を追いかけつつ、蝉にも負けぬ大声で「ファイトォーーッ」と声をあげていた。
少し視線を上げれば、太陽がまだ沈むまいとしているのが見えた。それでも太陽の下縁はもはや隠れて見えなくなっている。
空は一晩中泣き腫らしたような茜色に染まっていた。世界が赤で統一されている。だがそれでもどこかあやふやな、そんな時間帯。
温かくも冷たくもない風が頬を撫でる。そのぬるさが、どこか心地よい。
死ぬにはいい場所だと思った。
後ろ手にフェンスを掴んでいた手を離す。
そして足元を見る。
この足を踏み出せば二秒も経たず到達できる眼下の光景が、とてつもなく遠いものに見える。
尻の穴から氷柱を突っ込まれたように、肝が冷える。
脚がガクガクと震える。
背筋に汗が伝う。
息が荒くなる。
思わずフェンスを掴もうとする手をズボンのポケットに突っ込み、血が止まるくらいに強く握りしめた。
「ファイトォーッ」
野球部の声が聞こえる。
ジリジリと喚く蝉の声も。
太陽がクラクラと揺らめく。
目を閉じると、景色の残像が緑色の幾何学模様となって中空に浮かんだ。
俺はそこに映り込む何かを探すように、より強く瞼を結ぶ。
蝉の声。
やがて、足の震えは止まった。
ああ、今なら死ねてしまうぞ。
先程まで足を震わせていたのは、死にたくないという意思だった。
それが今は止まってしまっている。
別に、死ぬ覚悟が決まっていたわけでもなかった。
ただ、死んでもいいやと心から思っていた。
目を開く。
太陽はもはや半ばまで地平線に身を沈めていた。
蝉の声が、ひどくうるさく聞こえる。
ジジジジジジリジリジリジジジジ────。
「夏のバカヤローーーーっ!!!!」
さっきの自分の声がこだまのように聞こえた気がした。
馬鹿野郎はお前だよ、俺よ。
0点は取るわ、そして今から自ら命を絶とうというのだから。
俺はこの世への未練に決別していく。
安濃先生、わざわざ止めてくれたのにごめんなさい。
妹よ、俺がいなくなったあとはどうぞ部屋を広く使ってくれ。
冨樫先生、俺が生きてるうちに完結させてくれなかったことを恨みます。
セガはもう別に期待してなかったからどうでもいいです。
いよいよ、俺は死にそうだった。
蝉の声。
もうぐちゃぐちゃの頭の中、俺は祈っていた。
いや、それは祈りと言うよりも、懇願だった。
ああ、誰か。
誰か俺を止めてくれ。
蝉の声────────
──その時、背後で何かが炸裂したような音がした。そしてその音は一度に留まらず、バチバチと断続的に鳴る。それは油が跳ねるような音でもあったし、スパークが飛び散る音にも聞こえた。
振り返ると、屋上のフロアの様子は急変していた。マグネシウムが燃えているかのような眩い光が視界を埋め尽くす。
最初は火事でも起こっているのかと思った。しかしそうではない。この光は熱くないのだ。白熱電球というよりは、蛍光灯のような光。少なくとも何かが燃えている光ではない。
一体何が起こっている? 俺はさっきまで死のうとしていたことも忘れて、その現象を呆然と見ていた。
その光は段々と小さくなっていき、やがて人の形をとった。そして次第にその照度が下がっていく。
光の中から現れたのは女の子だった。
真っ黒なローブに身を包み、頭にはこれまた黒い三角帽子。ステレオタイプ染みた魔女の格好。
魔女はあたりをキョロキョロと見渡したあと、フェンスの向こうに俺の姿を見つけると言った。